八田與一(はった よいち)さんは、日本の水利技術者。

日本統治時代の台湾で、農業水利事業(新田開発-ダム等)に
大きな貢献をした人物として知られる。

2014-10-9 八田與一記念碑にて滋賀県庁・企業の皆様と

 

 

 

石川県(現在は金沢市今町)出身。(1886-1942)

 

1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督内務局土木課の技手として就職。
台湾では、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市台南市高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当。
その後、発電・灌漑事業の部門に移った。
八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任され、これを成功させ、高い評価を受けた。
当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかであった。

31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
(ウィキペディア より抜粋)